海外公演記


 12月26日、第2回ひこね市民手づくり第九演奏会が大成功に終わった3日後、12月29日に日本を出発した。11時間かけてフランクフルトに着き、飛行機を乗り継いで一行は一路ベルリンへ。

 今回はオーケストラ約80名、合唱団約50名、随行者20名の総勢150での移動となった。バスが5台、添乗員さんも4名という大所帯での演奏旅行だ。

 その日の夕方、ベルリンに降り立った。予想したほど寒くはなく、1時間ほどバスに揺られてホテルに到着。ドリトン・ミューゲルゼー・ホテル・ベルリンは、旧東ドイツのころ要人が保養したというリゾート地。ゼーとは「湖」のことで、その名のとおりホテルの目の前には、広大な湖が広がり、周辺は森で囲まれた閑静な湖畔だった。朝、湖畔に出てみたが、氷点下の中だけに、身を切られるような寒さで、しかしすがすがしい空気だった。

 30日は午前中は市内観光、午後からホールでリハーサルだったので、私は午前中の時間を利用して別行動を取らせていただき、教え子の石田聖子さんとポツダム広場で待ち合わせをすることにした。彼女は、私が谷津小学校に赴任した時、4年生で管弦楽クラブに入部してきた。以来チェロを学び、東京芸大を卒業した後、現在はベルリンに留学してがんばっている学生である。

 チェロを肩からかけて現れた彼女とは約1年ぶりの再会だった。「こんなところで会えるなんて、すごく素敵なことだね」などと、再会を喜び合った。彼女の紹介で午前中、なんとなんと、ベルリンフィルのリハーサルを見学することができた。30日と翌31日に行われるジルベスターコンサートのカメラリハーサルだった。楽員たちは本番の衣装で舞台裏に集まってきた。舞台裏はちょっとしたカフェになっており、関係者なら誰でも100円くらいでコーヒーが飲める自由な空間だ。まずヴィオラの土屋邦夫さんと初めてお会いすることができ、名刺を交換させていただいた。石田さんも彼にお世話になっているそうだ。彼と数分間話をすることができたが、とても温かい人柄がにじみでてくるようで、柔らかいヴィオラの音が想像できるようだった。とても幸せなひとときだった。練習が始まる2分くらい前に慌ただしく安永徹さんが登場。久しぶりにお会いすることができた。今回はコンマスということで、舞台裏でも忙しくされており、本当に挨拶しかできなかったが。お父上が亡くなられたお悔やみを申し上げるのを忘れてしまったのが心残りだった。

 フィルハーモニーザールに入ると、客席の後ろ半分が見学者で埋め尽くされていた。今回のコンサートのチケットが高いので、買うことのできない若い学生が中心だった。彼らは皆、ベルリンフィルの誰かに、レッスンしてもらっていたり、また、してもらいたいと狙っているのであろう。ざっと300人くらいいたと思うが、こんな光景は日本では考えられない。日本のプロオケの場合、だいたいがホール側、オーケストラ側で見学者をシャットアウトしてしまうからである。海外のように練習の見学をできるシステムは、日本でもぜひ取り入れてもらいたいものである。

 さて、颯爽とアバドの登場。自然と会場から拍手が沸き起こる。それに応えるアバド。なんとリハーサルだというのに楽員まで立たせたりして。すごくフレンドリーだった。

 いきなりベートーヴェンの交響曲第7番終楽章が流れ出した。アバドは流麗な棒さばき。そして安永さんを中心に、ピシッピシッと決めが入る。きびきびとしたさわやかな響きだった。ドボ8の終楽章、マラ5の終楽章、そして火の鳥の後半と、99年最後のコンサートは、フィナーレばかり集めた企画だった。いつも思うのだが、ベルリンフィルは本当に一人一人が全力で弾きまくる、吹きまくる、楽器を最大限鳴らしているのだ。でも音は乱暴にならず、とても丁寧。フルートのトップのパユがドボ8の最後のソロで指がもつれて苦笑い。びっくりしたのは会場からもどよめきが起こったことだ。日本ではプレーヤーのミスの際に見学の者がアクションなど起こそうものなら大変なことになるが、ここベルリンではなぜか温かい空気が漂っているのだ。なんとも不思議な気持ちで会場を後にした。

 コンツェルトハウスの裏手にある楽譜屋さんに寄ってから、石田さんと地下鉄を乗り継いで我々の本番の会場であるSFD大ホールに向かった。彼女には第九の本番にもエキストラで出てもらうつもりだった。会場に入るとすでに他のメンバーは到着しており、思い思いに練習をしていた。2時30分から棒が降りた。伝統があり、木材をふんだんに使ったホールが私たちを迎えてくれた。充分な残響、あたたかい音色、そして何と言っても日本ではなく、ここベルリンの空気がいやが応にも緊張感を高める。オーケストラも合唱団も心なしか紅潮している。

 現地から4つの合唱団、計70名の方たちがエキストラ参加してくださった。比較的ご高齢の方が多かったが、皆ニコニコとしていて、非常に協力的だった。さぞ日本から参加の合唱団との交流も深まったことだろう。ソリストはソプラノの田島さん以外は外国人。とくにウィーンから来たテナーのリントナー氏は、4楽章のトルコマーチのあまりの速さに(私はそれほど速いと思っていないが・・)面喰ったようだった。多少の問題を残しながらも、リハーサルは無事終了。明日の3時間のゲネプロにすべてをまかせて、夜の町にくりだした。

 ドイツの居酒屋はとにかく安い!!さんざん飲んで食べても、日本の半額くらいの感覚なのだから。中でも圧巻は、メータービアーと言って、1メートルの長〜いプレートに1ダースのジョッキに入れて運んでくるビール。それを軽々と運んでくる店の従業員と思わず写真を撮ったり、プレートを持ってみたくなるのも当然だ。楽しい夜はビールとともにふけていった。電車の乗り継ぎで苦労して、結局終電でホテルに帰ることになってしまった。

 31日、いよいよ本番だ。午前中また自由行動があったので、私はかねてから思い焦がれていた一枚の絵を見るために美術館に足を運んだ。ラフマニノフが音楽にしたというベックリーン作の「死の島」をどうしても見たかったのだ。現地でお世話をしてくださったフォアマン信子さんの情報によれば、今はAlte Museum(古博物館)に展示してあるそうで、3人の友人と連れ立ってまず直行した。そしてあこがれの絵とご対面。以外にサイズは小さい印象を受けたが、やはり画集や本などの写真で見るよりずっと迫力があり、細部にわたって観察することができた。吸い込まれそうなオーラを放つ作品に間違いなかった。

 目的を達成した後、向い側にあるドイツ最大の博物館「ベルガモン博物館」駆け足で見学し、SFDホールへ向かった。昨日練習しているので、日本の3倍の高さはあろうかというひな壇にも、また音響にも、慣れてきた。リハーサルの途中、午後4時の時点で、日本では新年を迎えることになる。20秒前からインフォメーションし、10秒前から全員でこの日最初のカウントダウンをした。練習は一層なごやかな雰囲気になった。日本の2000年問題は大丈夫?ちょっと心配がよぎった。こちらの本番のチケットは全800席分出ていて、満席まちがいなしだという信子さんの言葉に、コンサートの成功を信じてリハーサルを終了。本番を待った。

 開演前、やはり心配だったのは「本当にお客さんは来てくれるのだろうか。日本人の第九に興味をもってくれるのだろうか」という思い。しかしその心配とは裏腹に、すでに開演30分前から、続々とお客さんが詰めかけた。それも皆ドイツの方々ばかりだった。いよいよ私も緊張感が高まってきた。これまでに何度か海外での演奏の経験は積んできているが、今回は特別な思いがある。日本人のオーケストラ、合唱、しかもアマチュアだ。本番は集中しているとは言え、何が起こるかわからない。スリルもあるし、期待も大きいのだ。

 開演を告げるチャイムが鳴って、ステージへ出るオーケストラ。一人一人に「日本でやっているときと変わらない気持ちで、精一杯やろう」と声をかける。会場はすでに満席だ。開演に先立って、彦根市長さんからのメッセージを実行委員長の平井さんが代読し、信子さんが通訳してくださった。2000年に向けて「愛と平和のメッセージ」を送ろうという、この意義あるコンサートが開演した。最初の曲の芥川也寸志の交響管弦楽のための音楽は、ドイツの聴衆にも受け入れてもらえたことが、心のこもった盛大な拍手で確認できた。そしていよいよ第九。オーケストラが、そして合唱が信じられないくらいにのびのびと、そして楽しく表現していく。楽章ごとに拍手が入った。ヨーロッパの聴衆は、演奏が良いと楽章の間でも、惜しみなく拍手をしてくれる。これは私たちの精一杯の表現に対する評価だと、素直に受け取っていいと思った。

 オーケストラ、合唱団のひとりひとりの視線が、私に突き刺さるかのように向かってくる。すごい集中力と表現力だ。芥川さんが「音楽の本質はアマチュアにある」と唱えつづけてこられた、その一端を見たような気がした。1+1が2ではなく、10にも20にも大きな力となって押し寄せてくるのだ。指揮をしながら感動する瞬間がいくつもあった。

 歓喜の歌がホールいっぱいにこだまし、無事に演奏が終わった。2階席からは、スタンディングオヴェーションをいただいた。何人かのお客様の目から涙がこぼれていた。成功を確信した。オーケストラをセクションごとに立たせて拍手を受けた後、私はヴァイオリンで参加した4人の小中学生を立たせた。彼らは彦根ジュニアオーケストラのメンバーであるが、時差ぼけと、体力の消耗に耐えて、見事に演奏しきったのだった。会場からはひときわ大きな拍手が巻き起こった。至福の時とはこんなときのことを言うのだろうか。とくに最年少の少学3年生の高岸卓人くん、ごくろうさま。小学生の時に、なんて素晴らしい思い出をつくったのだろう。本当に良かったね。

 アンコールに私のアレンジした「ふるさと」を演奏。ドイツ人にも発音できるように、ドイツ語的にローマ字でかなをふり(これが苦労した)ソリストも含めて出演者全員で演奏した。出演者も聴衆の皆さんも、みんなやさしい顔になって、コンサートは大成功のうちに終了した。

 興奮覚めやらぬ中、9時半からSFDのロビーでカウントダウンパーティがはじまった。思い思いに着席するドイツの合唱団員、右へ左へと忙しく動き回る実行委員。私は例によってサイン攻めに・・・・。1999、12、31の日付が入ったサインは確かに貴重。また何人かの日本人は着物をお召しになって接待をしてくださった。会場のあちこちから演奏の感動を分かち合う乾杯の声、そして一生懸命にドイツ人とコンタクトをとろうとがんばっている団員も数多く見かけた。途中、独日協会ポツダムの会長・ブロックドルフ博士の流暢な日本語での挨拶や、日本からの一般参加の方による日本舞踊なども交え、ついには澤さんご夫妻(今回の一番の功労者、コンマスとチェロトップ)を中心とした弦楽アンサンブルの伴奏による日本の唱歌やドイツの名曲の大合唱となった。極めて自然に時が流れて、いよい2000年へのカウントダウンの時を迎えた。

 緊張感の走る中、20から順番にドイツ語で、あるいは日本語でカウントダウンが進められ、最後の0はドイツ語の乾杯を意味する「プロスト」で締めくくった。トランペットのファンファーレに続いて、第九のメロディの大々大合唱。抱き合って新年を喜ぶ姿で、会場はあふれ返った。私は胴上げもされてしまった。三本締めと万歳三唱でお開きとなったのが午前0時30分だった。

 ご招待したドイツの方々は満足げに家路に着き、私たちもバスに乗り込んでホテルに帰った。ドイツはマナーの厳しい国だと聞く中、恥ずかしくないようなパーティをしようと、実行委員の皆さんが知恵をしぼって企画したのだが、心のこもった素晴らしい会になったと思う。ご苦労様でした。

 年が明け、一行はデュッセルドルフに飛んだ。バスにて市内観光、昼食の後、ケルン大聖堂に詣でて、いよいよボンに向かった。ボンは言わずと知れたベートーヴェンの故郷。ミュンスター広場のベートーヴェンさんに会って帰りたい。そんな思いが通じたのか、ベートーヴェンハウスの館長ラーデンブルガーさんは、元日にもかかわらず特別に開けてくれ、ベルリンで第九演奏した私たちを温かく迎えてくれた。彼のレクチャーのお礼にと、ここでも「ふるさと」をプレゼントした。ボンの元日の夜もまた、楽しく更けていった。

 4泊6日という強行スケジュールだったが、全員が病気や怪我もせず、本場のドイツで堂々と見事に第九を演奏し、また現地の音楽愛好家の皆さんとも交流を深め、言葉では言い表せないくらいの充実した演奏旅行だったと思う。彦根を中心に編成されたオーケストラ、合唱団だったが、周辺をはじめ、千葉や大分など遠くからも参加者が集まったことも、付け加えておきたい。TAK通信を見て参加された方も十数名いらっしゃって、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 今回の演奏旅行の成功の裏には、彦根市をはじめとして、ひこね市文化プラザ(職員の皆さんが関空まで見送りい来てくださった)や彦根市文化体育振興事業団等、各方面からの支援があったので、あわせて感謝の意を表したい。とくに彦根第九の合唱団員でもある中島市長さんは、2000年問題のため、ベルリン参加を断念せざるをえなかった。市長さんには残念なことだったが、代わりに彦根市民の皆さんが、立派に国際交流の務めを果たしてきたことをご報告したい。

 それぞれの皆さんが、地元に帰ってから、この貴重な体験をもとに、益々活発な音楽活動を繰り広げていかれるよう祈って、また滋賀県彦根市の音楽文化が、この企画をきっかけに益々発展されることを信じてこのレポートを閉じたいと思う。

 再会を誓って。

みなさま、いかがお過ごしですか。

一部の方にはお伝えしてあったのですが、24日からカザフスタンに行ってまいりました。本日帰国いたしました。25日の毎日新聞の朝刊(千葉版)にかなり大きく取り上げていただきました。空港での出発前の写真付きです。

さて、今回は旧首都のアルマティで当地の卒業式と成人式を一緒にしたような「大イベント」があり、その一環として、室内オーケストラが演奏会をするので、ゲストに招きたいという依頼が、在日留学生のエルジャンくんを通して、現地の文化センターの所長からありました。急遽パスポートとビザ、航空券の手配ができたので、いつくかの仕事をキャンセルして行くことにしました。

何しろカザフスタンといえば、昨年、日本チームとサッカーの試合をしたくらいの情報しかなく、まったく未知の世界へ足を踏み入れたのですから、今までの海外遠征のそれとは比較にならないくらい、大きな不安を抱えながらの出発でした。

しかし現地の空港につくや否や、VIP扱いで、初めて税関無しの特別ルートで空港の外に出るという待遇を受け、不安は消え去りました。

カザフスタンは、旧ロシア、現在は中央アジアに属し、中国の西、モンゴルの隣、ウクライナの東、もちろんロシアの南に位置し、緯度は北海道くらいです。 国土は世界で9番目、日本が7つくらい入ります。カザフ人は東洋系の顔立ちで、私などはすぐに同化してしまいました。半分はロシア系の民族も住んでいます。

町並みはルーマニアとあまり変わりませんが、車が良いのです。元は騎馬民族だったこともあって、お金がたまると、良い乗り物(車)を買うそうです。

食事は、イスラム系なので豚肉は食べず、牛、羊、馬、鶏肉が中心です。味は濃く、中華料理とトルコ料理をミックスした感じで、おいしいです。 馬の乳を使った「馬乳酒」はアルコール度は低いものの、すっぱくて強烈でした。どんぶり一杯飲み干しましたが・・・・・。

通訳はカザフ大学の日本語 学科の学生で、ケネサリ君(ケン)。彼は、サッカーのあのゴン中山にうりふたつ。自身もメールアドレスにnakayamaと使っているくらいです。彼は1年間、熊本大学に留学していたので、熊本弁も使いこなします。彼と、市役所のアスカルさん、エルジャンのお姉さんのアイグルと私の4人で二日間、行動をともにしました。

25日早朝に到着して、ホテルで朝食。2時間ばかり仮眠して、1時から6時まで練習。 練習は何とか英語が通じたので、苦労はしませんでした。ケンが「通訳の必要がないよ」とびっくりしていました。「音楽は世共通語だからね」と私。ただ今回は現地のアルファベットと数時を覚える時間がなかったので、英語で通しました。全員がカザフとロシア語を使いこなすので、わずかに知っているロシア語、スパスィーバ(ありがとう)、ハラショー(わかりました)、パジャールスタ(どういたしまして)だけは使いました。

8時からは、最大のイベント「 アック・ジョール」フェスティバルに招かれました。これは市が主催するイベントで、中央スタジアムに2万6千人を動員したビッグな祭典。卒業式と成人式をミックスしたようなもので、日本では考えられないのですが、セレモニーの後は、ロックのライブと化し、ロシアからのゲストも多数いて、ほとんど総立ちの状態で夜の12時まで続き、最後に花火で終わるというものです。その音たるや半端なものではなく、近所の迷惑かえりみず、鼓膜が破れそうなくらいの大音響で、戸惑いました。翌日テレビのインタビューで、祭典の感想を聞かれたのですが、返答に困りました。アック・ジョールとは「白い道」。日本流に訳せば、けがれのない清い道を、あなた達は進むのです、といったところでしょうか。 とにかく、愛国心を高め、社会での貢献を期待するための、大人が企画した祭典ですが、日本人の感覚では理解できないことが多々ありました。

2日め。市内観光をしたあと、4時からリハーサル。この日にわかったのですが、コンサートは私の他に、当団のマエストロ「ムラットゥ」さんが、ハイドンのチェロ協奏曲ほか数曲を振ったのです。1日目に「あなたにはモーツァルトのジュピターとチャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮していただきます」と言われた意味がわかりました。

現地のオーケストラは30名編成くらいの小さなものですが、非常に情熱的で、騎馬民族を祖先にもつからかもしれませんが、とにかく乗りが良い。走るのです。「ため」がないので、苦労しました。外国人の指揮者など、ほとんど来ない地ですので、楽員のほうも不安だったそうですが、私の練習が始まったとたんに、気持ち良く受け入れてくれました。みんな温かく、熱心で、よく棒に着いてきてくてました。とくにチャイコの弦セレは燃えていたようです。コンマス(女性、ムラットゥさんのお嬢さん)も「練習が良かった、楽しかった」と言っていたので、一安心です。

本番は、2時間休憩なし。聴衆は一般の他に、現地の音楽学校の卒業生などを招待したそうです。ただ宣伝不足か、前日のお祭りの疲れがでたのか、あまり動員できずに、200名ほどのお客さんでした。始まる前にセレモニーがあり、司会者が進行し、私も少ししゃべりました。もちろん通訳付きです。曲目紹介も司会がやっていて、いわゆるパンフレットというものはありませんでした。

演奏会の習慣も、国によって違うものだなと感じつつ、あれよあれよという間に始まってしまいましたが、演奏はなかなかの出来で、みんな燃えていました。バイオリンのトップサイドの女の子は、チャイコの1楽章で弓の毛を3本も切っていました。拍手やブラヴォーもたくさんいただいたので、大好評だったと感じています。現地の大オーケストラの代表も「今度はウチを振りに来てくれ」とおっしゃっていました。代表からは民族楽器のCDをいただきました。

何よりも驚いたのは、終了後のパーティで、大統領などの高貴な方にしか贈呈しないという(本当?)見事な黒いコートをプレゼントされたことです。チャパンというそうで、黒いフェルトに金の派手なカザフ模様の刺繍を施してあり、帽子つきです。これを身にまとった私は、「本当のカザフ人だ」と絶賛でした。ルーマニア人からカザフ人に変身です。 さてこれを我が家のどこに飾っておこうか思案中。今はとりあえずチェロのケースに掛けてあります。

慌ただしくも充実した2日間が過ぎ、27日に出発し、本日28日に無事帰国しました。

カザフスタンやカザフ人のことは次回の「船橋市民新聞」に書くつもりですので、またTAK通信をお待ちください。

このレポートはホームページでも見れるように、更新しておきます。

長々とお読みいただきありがとうございました。

取り急ぎご報告いたします。


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