2001年11月1日
・・・悲しいできごと・・・


 私は生まれてこの方、取っ組み合いのけんかはしたことがありません。「人と争いはしない、したくない」が私の信条だからです。もう一方で腕っぷしに自信がないこともあるのですが、売られた喧嘩を買わないということがあります。たとえ言葉であっても、喧嘩を売られたとき、この喧嘩の相手が争うだけの価値がある人物かを見極めることが大切ではないのでしょうか。電車の中で悪態をつく酔っぱらいは見苦しいものですが、だからと言ってカッとなって喧嘩になってしまったら無意味なことは明らか。諭すことはあっても喧嘩はするだけ無駄なことと思います。

 しかし討論はよくします。それは自分とは考え方の違う人の意見を聞き、またこれに反論してお互いの共通項を見出そうとする前向きな討論だから、けしてマイナスにはならないと思うからです。特に上司には意見をはっきり言ってきました。教員になりたての頃、学年主任の先生とは何度も意見を闘わせ、そのたびに自分が成長してきたことを実感しています。同僚と二人で校長先生の自宅まで押しかけ、ある問題に対して嘆願したのが今となってはなつかしく思い出されます。

 9月11日のアメリカ同時多発テロは、全世界を震撼させました。その後多くの音楽家が祈りを捧げ、反戦を唱えています。私もそのひとり。コンサートのアンコールで祈りの音楽を演奏し、インターネットでブッシュ大統領に直接反戦を訴える署名にもサインしました。しかしその甲斐も無く、報復攻撃が始まってしまいました。とても残念で悲しいことです。

 確かにテロは絶対に許せません。犯人に対しての制裁は必要でしょう。テロの撲滅も世界の願いです。しかしアフガニスタン攻撃により、一般市民を巻き添えにすることだけは絶対に避けてほしい。こう願っていましたが現実に一般市民の犠牲も確認されています。難民も日に日に増えていくばかり。なんと言う悲劇でしょう。反米感情が高まり世界各国で大規模なデモが毎日のように行われています。こうした報復は報復を呼ぶだけで、武力行使だけでは何も解決しないことを早く気づいてほしい。なぜテロは起きるのか。これはパレスチナ問題まで遡らなければ解決でない複雑な思想の違いです。それを武力でおさえてきてしまった代償がテロに結びついてきている。そうした根底にある問題を解決しなけれは、たとえ今回犯人を捕らえたとしても、また近い将来テロは起きてしまうでしょう。

 アフガニスタンが想像を絶する貧しい国だとうことが報道される中、まずこうした国への経済援助が先決で、それからテロ対策を考えるべきだったのではないでしょうか。水すら思うように入手できない中、食料不足や伝染病の蔓延も心配です。アフガンの市民や子どもには罪はありません。輝かしい将来のある彼らの未来を奪い取ることだけは認めたくありません。

 今回の惨事で多くのアメリカの子ども達が悲しんでいます。それは言葉では言い尽くせないほどのショックでしょう。でも苦しんでいるアフガンの子どもたちも、悲しんでいるアメリカの子ども達も、みな平等なのだということを全世界の人々が再認識するときだと思います。一刻も早い和解か終結を迎え、再び平和な世界が戻ってくることを願って止みません。
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