2001年9月1日
・・・高校野球が伝えるもの・・・


 8月8日、いつものように朝の身支度をしながらテレビをつけた。折りよく今日は夏の甲子園、高校野球の開会式。大阪に滞在中だったが、たまたまつけたホテルのテレビに映し出された開会式。今年は地元の習志野高校が出場することもあって、私の中では関心が高かった。でもこうして開会式から見るのは何年ぶりだろう。久々に見た開会式。かなりの練習を積んだであろうマーチングや人文字をはじめ、数々のアトラクションで目を楽しませてくれた。

 スポーツ観戦の中でも、私は特に高校野球が好きだ。もちろん試合の内容は筋書きのないドラマの連続だが、それにもまして、各選手や出場校の紹介、スタンドの応援席のリポートも楽しみのひとつ。選手はもちろん、ベンチを温めている控えの選手、ベンチにも入れなかった補欠の選手、そしてスタンドを埋め尽くす家族や友人、同窓生、そのひとりひとりにドラマがあり、野球にかける思いが詰まっている。そんな人間模様に心を動かされるのだと思う。習志野高校のエースの帽子の裏には「122人全員野球」と書いてあると聞いた。高校生がたったひとつの白球を追ってグランドを駆け回り、どろんこになりながら青春をぶつけているその姿に、大歓声が巻き起こる。勝っても涙、負けても涙、しかもさわやかな涙である。勝ち負けにこだわることなく、スタンドからも惜しみない拍手が送られる。

 根性とか努力とか我慢することに、しらけた視線を送る高校生が増えている中、いやいや日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思うのは私だけだろうか。きっと彼らは一生涯、野球を愛し、何らかの形でスポーツを続けていくことだろう。応援席で唇が切れるほど必死にラッパを吹いている吹奏楽部の諸君にしても、甲子園での思い出、またコンサートで大勢の聴衆の前で演奏できたときの喜びをバネに、これからも音楽を愛し続けていってほしいものだ。

 日頃から私は大勢の人前で仕事をしている。オーケストラや合唱団のメンバーにして年間何百人、いや聴衆の方も加えたら何万人の人々との新しい出会いがある。そのひとりひとりに当然ドラマがある。例えばベートーヴェンの第九を歌う合唱団。その団員の中には、病床の夫の看病を続けながら練習に参加したご夫人、亡き母への追悼の意味をこめて初参加した男性、長年の夢であった親子での共演、第九の本番30回記念というベテラン、それはそれは悲喜こもごもである。そうしたドラマを知り、熱い視線を感じながら指揮をするとき、指揮者としての重責と大きな使命を感じてしまう。聴衆の皆さんにおいても、様々な思いでコンサートに足を運んでくださっているわけで、そうした皆さんに音楽で何を伝えることができるのだろうか。

 高校野球では、真剣さや勇気、また人との絆というものを大きな感動とともに私達に伝えてくれる。音楽はそのときの人の心の状態で受けとめ方が違ってくるものだが、あるときは勇気、喜び、悲しみを伝え、またあるときは心の清涼剤になってくれるのかもしれない。そんなことを思いながら今日も指揮台に立つ。
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