2001年5月1日
・・・目は口ほどに・・・


 相手の目を見て話しができないというのには、いくつかの理由が考えられる。恥ずかしい、自身がない、うしろめたさを感じる、はたまた「惚れて」いて照れるので直視できない、等々。

 目の前にいる恋人と直接話さないで、携帯電話のメールをわざわざ使って会話?をする若者が増えているという。彼らがそうさせるに至った原因はなんだろう。メールやチャットは本当の会話とは言えない。会話のできない若者、相手の顔色をうかがうことを知らないので、相手の気持ちを考えずに自分の言いたいことだけを羅列する。そして事は誤解を呼んで大事に。これも情報化社会の弊害なのだろうか。コンピュータやメールなど新しい情報経路は、直接の会話を介さずに用件が伝わってしまう。その便利さの裏で図らずも発生した代償とも言えるだろう。 

本屋の売れ筋コーナーなどの棚を見ると、「人と上手に付き合う法」などの人間関係のハウ・トゥーものが多いのに気づく。十年前には考えられなかった。何と嘆かわしいことだ。人との付き合いの前に、コンピュータとの適当な付き合いも考えたい。 こうした機械を相手にした作業は、ゲームと言えども非常に孤独な世界に誘い込まれる。我が子もそうした世界に何の抵抗もなく入ってしまっているが、本当にこれでいいのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。人格形成を歪ませてしまうひとつの要因にはならないか。自分の気持ちを上手くコントロールできない世代が、機械漬けになりつつある今後は、ますます人付き合いの下手な若者、加減を知らない若者を増殖しかねない。

 小学生のカリキュラムの中で、パソコンを必須科目にする必要があるのか。大抵好きなことは教えなくても自ずと覚えてしまうものである。パソコンや電卓は高校になってからでも遅くはないと思うのだが…。いかがなものか。 「目は口ほどにものを言う」という格言があるが、自分の主張をどうしても相手に伝えたい時、目を見て話さなければ説得力がない。プロポーズをする時だって恋人の目を見て伝えるもの。まさか21世紀の若者はメールで「そろそろ結婚?」「ぼちぼちね」などと、やりとりすることなんてないだろうな。日曜日に子ども達が近くの公園に、ザリガニを取りに元気に自転車で行く後ろ姿を見て「ウチはまだ大丈夫かな?」と妙な安堵感が漂った。

 実は良い指揮者の条件のひとつとして目、視線は大事な要素である。以前「題名のない音楽会」で指揮者の岩城先生が、目隠しをして指揮をするのと、手を使わずに目と呼吸だけで指揮をするのを比べる実験をした放送があった。当然後者のほうが音楽が伝わってくる。手を動かすことは二の次三の次なのだ。楽譜にかじついて指揮するのは論外。楽譜はほぼ頭の中に入っているものという前提のもとで、オーケストラのひとりひとりと目で会話しながら指揮をしないことには、表情は伝わらない。そうしたツボを心得たアイコンタクトをすることによって、指揮者とオーケストラの信頼関係が生まれてくるものなのだから。

 音楽の感情表現は人間にしかできない、大きな宝であり、人が楽器に触れるようになってから、もう何千年もの間、綿々と続いてきた普遍的なもの。そうした音楽に携わっている自分は、音楽家としての誇りを感じながら、楽譜という何の変哲もない記号から出てくる音に心を注ぎ、命を吹き込み、多くのお客様の感動を呼び起こすような演奏をしたいと、棒を振り回し、汗をかく毎日である。
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