2000年6月1日
・・・ゲーム世代に思う・・・

 一年ほど前に九州芸工大の学生の皆さんと福岡のとあるゲームセンターに入った時に、そのころ出たての「ビートマニア」という音楽と映像にあわせて、ボタンを押していくゲームに集中している子どもに遭遇した。どう見ても小学低学年にしか見えない小さな子どもが複雑なリズムをいとも簡単に叩いていく。あまりの上手さに私も学生も唖然としたものだったが、将来打楽器奏者になるのならともかく、ゲームが得意になったところでこの子に何のプラス要因をもたらすのだろう。それにどうやってこの子はビートマニアを覚えたのだろう。親がお金を出して練習させたのか、などと疑問は大きくなるばかりだった。
    
 子どもにせがまれるも我慢させていたファミコンを、我が家ではついに昨年購入したが、今では専ら子どもたちの占有物となっている。GWに少し時間があったので、ファミコンに興味の無い私も子どもたちに教えてもらいながら、ゲームに挑戦することにした。ものめずらしさで最初は楽しかったのだが、慣れないせいもあってかすぐに飽きてしまった。だれもが持つであろう征服欲をくすぐり、闘争心をあおり立てる内容のゲームだろうが、心が通わないコンピューターと対戦していても、一時的な快楽こそ味わえても決して面白くないのだ。自分と電子頭脳の閉鎖的な空間に押し込められてしまうような錯覚に陥り、次第に大きくなる孤独感を味わった。ファミコンをやめ、子どもたちを呼んで神経衰弱や七並べなど普通のトランプゲームに切り替えることにした。

 それにしても昔と違って最近のゲームは、複雑で奥が深いというから、多くの人がはまってしまうのは無理もない。だが仮想現実(バーチャルリアリティ)の世界は、どんどん過激になっていくばかり。格闘ゲームでは簡単に相手を 倒すことも、また思考型ゲームでは、途中でいやになったら、ボタンひとつでリセットできる。我慢を知らず、まだ善悪の判断がきちんとできない子どもの時代からこんなことをやっていたのでは、いずれ内向的、もしくは排他的になってしまうのではないかと危惧してしまう。少子化、核家族化が進む現代において、人付き合いがうまくできない「ゲーム世代」の若者を生み出す結果になってはいないだろうか。現実と仮想の垣根は急速に取り払われつつある。仮想の世界で満たされていた欲求を現実に移し変えたくなることもあるのだという。以前起きたハイジャックは、飛行機操縦のシュミレーションゲームを現実のものとしたかったというのが、犯行の動機だった。もはや、常識と言う 言葉が成立しなくなってきているのだろうか。

 ファミコンが直接の原因でなくとも、歪んだ社会のひとつの要因になっているのかもしれない。何でも便利になった電脳社会が背負った代償などと簡単に片付けられる問題ではなくなってきている。


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