田久保 裕一 の “エッセイ集”


1999年12月1日
・・・便利なパソコン、だがしかし…・・・


 先日、ついに私もパソコンを購入した。これまでは電子メールやインターネットなどは、すべて携帯情報端末の電子手帳で処理してきたが、ホームページの更新や住所管理など、どうしても小さなモバイルでは対応しきれなくなり、最新のノートパソコンの購入に踏み切ったのだった。実際何を買おうかと悩んでいるそばから、どんどん新しい機種が発売されていくので、ここ何年間か買いあぐねていたのが正直のところだ。これで移動の際の荷物はまたまた重くなり、軽く三〇キロは越えているはずである。

 購入した日に、小学生の長男が目を輝かせて私に寄ってきた。驚いたことに、パソコンと悪戦苦闘していた私がちょっと手を休めた隙に、長男は勝手に操作し、トランプゲームをやっているではないか。そんなものがパソコンの中に入っているとも知らない私は何と十才の息子から、操作の仕方を習うはめになった。今学校ではパソコン教育の導入をしていることは聞いていたが、子供たちがコンピューターとさりげなく向き合っている姿を見ると、時代の流れにとり残されそうな自分が見えてくるのだった。最近では娘や幼稚園の次男までもが、ダブルクリックをこなしているのだから、末恐ろしい。

 子供たちと私がそろってパソコンに興じていると、一人傍観しているのが妻君である。彼女は生来の機械オンチで、ビデオの録画とファックスの操作だけは習得したのだが、キーボードとはまったく無縁のアナログ人間である。昔も今もパソコンが無くても、何ら不自由を感じない。時間をかけて操作を覚えたところで、機械に自分が振り回されそうで納得できない。というのが妻の言い分である。

 確かに電子手帳やパソコンは便利だが、もしもトラブルが生じてメモリーが飛んでしまったら、パニックに陥り、仕事どころではなくなってしまう。つい最近も電子手帳の電源が急に入らなくなり、一週間修理工場行きになった。こんなこともあろうかと、私はスケジュール管理だけは自作の月間予定表に手書きで一字一句記入することにしているのである。 

 これだけワープロやパソコンが普及してきた現在、漢字を覚えられない学生や、使えない大人が激増しているという。最近では時候の挨拶から結びの言葉まで、自動で手紙が書けてしまうシステムが付いていて、一見便利だと思われがちだが、かえってオリジナリティに欠ける感も否めない。お礼状やちょっとした手紙などはやはり手書きの文字が、味があっていいものだ。私はいつも葉書と便箋、封筒と切手を持ち歩いていて、旅先からできるだけ自分の手で手紙を書こうと思っている。

 便利な機械が次々と世に送りだされているが、どんどん人間が横着になっていくのではないかと、少しばかり不安を感じる今日この頃である。


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