田久保 裕一 の “エッセイ集”


98年12月19日
・・・第九の季節に思う・・・


 師走になり、日本のクラシック音楽界はベートーヴェンの第九交響曲一色になってきた。これほどまでに「第九」を年末に演奏するのが恒例となっているのは、日本だけの現象で、欧米の指揮者はあまり演奏したことがないという。日本中のプロのオーケストラが集客力低下に悩んでいる中、「第九」だけは数日間の自主公演が成立し、そのほとんどが満席になってしまう程の人気だ。最早「第九」を聴かないと年が越せないという感覚にさえなってくる。音楽家にとっては稼ぎ時で、ボーナスになるという、通俗的な見方もあるが、それだけ聴衆も望んでいるし、地元船橋や習志野でも20年もの間、毎年り取り組んでいるほど合唱愛好家の要望が高く、実績も積んできていることも確かだ。

 今年2月の長野オリンピック開会式では、小澤征爾指揮により、5つの大陸を衛星放送で結んで同時演奏するという、何ともスケールの大きいイベントがあり、驚嘆させられたことは記憶に新しいが、2年前、アトランタの開会式の聖火点灯の際にも鳴り響いていたのも、やはり「第九」だった。

 「全ての人は兄弟になる」これは、4楽章の合唱のテーマである。200年前にシラーが発表した「歓喜に寄す」という長大な詩の一節だが、神を讃え、自然の恵みに感謝し、人類愛と比類なき世界の平和を願う祈りだ。これこそ人種の差別や思想の相違を乗り越えて世界中の人々の心がひとつになるスポーツの祭典、オリンピックのテーマと一致しているのである。
 「苦悩を突き抜け歓喜にいたれ」というベートーヴェンの精神は、私たちに勇気と希望を与えてくれる。それは取りも直さず、世紀末の不安に満ちた今、年の瀬の節目に「第九」を演奏したり聴いたりすることによって、一年の凶事を払拭し、気持ち新たに年を迎えたいという日本人の欲求を満たしてくれるに違いないのだ。

 「第九」は音楽史上もっとも重要かつ崇高な作品で、私たち指揮者にとっても特別な思いで演奏に臨むことになる。毎回新しい発見をし、さらなる大きな感動を呼び起こさせてくれる。またクラシック音楽にはあまり馴染みのない方でも、抵抗なく入っていける作品だと思う。
しかし、これだけアマチュア合唱団の「第九」の演奏が一般化した今、考えなければいけないのは、演奏する側にとって、「お祭り」的行事として取り組むのは危険だということ。一時間を越える大曲の中で、合唱の出番はわずか15分程度に過ぎないが、だからと言って、気楽に演奏できる作品ではないということ。演奏には強い精神力と忍耐が必要とされる。プロ・アマを問わず、より完成度の高い表現を目指して努力を怠ってはいけないと意を強くしている。 

船橋市民新聞 <12月1日発行のエッセイ>より

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