* エッセイ集 *

2005年11月
・・・「ダメ金」をなくそう!!・・・


 今夏、縁あって全国吹奏楽連盟(吹連)の某県大会審査員をさせていただいた。これまでにも数あるコンクールの審査をしてきたが、吹連の審査は初めてのことだった。コンクールにつての所感は以前のTAK通信やホームページのエッセイなどで紹介させていただいた。
音楽とスポーツには共通点もあるが、相違点も多いと感じている。スポーツは記録として結果がはっきりしているし勝負もつきやすい。だが音楽の場合はかなり微妙で、同じ程度の技術の場合は最終的に審査員の「好み」によって意見が分かれることが多いのは否めない。ちょうど体操競技やフィギュアスケートのそれと同じと考えてよいだろう。そもそも音楽の演奏で点数をつけること自体、私はとても抵抗があったが、コンクールである以上、代表校を選ぶためには致し方ないところだと納得するしか術がない。しかしあくまでコンクールは目標であって、他校に勝つことが目的ではない。1点差で勝った負けたと一喜一憂されては、審査員として心が痛むのである。指導者の先生は、それをしっかりわきまえないと、とんでもなく歪んだ教育になってしまうので気をつけていただきたい。

「ダメ金」というのをご存じだろうか?吹奏楽の世界ではあたりまえになっている言葉だ。これは全国に広まっていると言っても過言ではないだろう。この言葉を初めて聞いたとき、心臓がギクッとし同時に何ともイヤな後味が残ったものだった。
参加校をそれぞれ金賞、銀賞、銅賞と3つの賞で評価する。例えば金賞が7つあったとしても、次のステップのコンクールに代表として選ばれるのが仮に3校とすると、選ばれなかった残りの4校は「ダメ金」というレッテルを貼られるわけだ。初めて金賞に輝いたバンドは大喜びだが、金賞常連のバンドにとっては何の意味も持たないから金賞を取っても喜べない。そんな異常な現実を目の当たりにし、どうしたものかと困惑している。「金賞は金賞として」素直に喜べること、自分たちの音楽に下された評価に対して、素直に受け止められることが大切。そして何より音楽で感動できる子どもを育てることが、教育の最大の目標だと思う。
だったら代表校だけを金賞にすれば良いと思い、今夏の審査の時も「3校で良いのではないか?」と県関係者に投げかけたが「その学校にとっては、代表に選ばれなくても金賞という結果が残るから意味はある」のだそうだ。「教育的配慮で金賞を増やしましょう」ということになった。もし本当に教育的ならば、まず「ダメ金」という言葉を指導者の先生方から排除してもらえないだろうか。これが切なる願いだ。そのことを大会運営委員の先生に伝えて会場をあとにした。

代表を「ダイヤモンド」にしたらどうか?いや「プラチナ」もある?また「ダメ金」に代わる言葉を見つけようとした。「普通の金」「ノーマル金とスペシャル金」いろいろ思ったが、そもそも「金」という短い言葉だから「ダメ」という何とも汚い否定形をつけやすいのではないだろうか。金賞なのに「ダメ」と否定されるのは理不尽だ。そういえば他のコンクールでは最優秀、優秀、優良、時にはその下に奨励賞をつけることもある。これだと優秀校の中から最優秀をいくつか選べば良いのだから問題ない。「ダメ優秀賞」は言いにくいから流行らないだろう。金銀銅は最終の全国大会だけにしてはどうか。それより上の大会がないので、代表校を決める必要もないのだから。
私は自分自身がコンクールで育ってきたし、小学校時代も中学校時代も燃えて練習してきた世代なので、コンクールを否定するつもりはない。小中学校の部活動で音楽に目覚め、音楽の道に進もうと思ったきっかけにもなった。コンクールがあったからこそ、ここ30年で飛躍的に演奏レヴェルが向上したし、音楽人口も増えたわけだ。だが一方で目標ではなく目的と化しただけの点の取り合いの音楽を耳にしたときには困惑し、辟易するはかりだ。本当の目的は音楽を通じての人格形成、さらに一生音楽を愛好する人を育てていくことだと、表向きはみんなが思っているに違いないが、現実はその理想との大きなギャップを感じてしまう。
映画「スウィングガールズ」で脚光を浴びるようになった吹奏楽。関心が高まるのは大いにけっこうだ。そういえば最近テレビに良く出る有名校もある。コンクールで良い結果を出して有名になりたいという憧れもわかる。しかし勝負にこだわるだけのコンクールへの参加の仕方をあらため、音楽を、そして合奏を楽しむという原点をもう一度見直してほしい。「ダメ金」という言葉をなくしただけでは現状は変わらない。



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