* エッセイ集 *

2005年3月
・・・6代目の携帯電話はいかに・・・


  私が携帯電話をもって11年になる。11年前の冬のこと。確か三重県に仕事に行くとき、雪で動かなくなった新幹線の中は公衆電話も通話不能状態で、たまたま携帯電話をもっていたお客さんを見つけ「100円払いますから貸してください」と頼み込んで使わせてもらったのが、購入のきっかけとなった。当時は携帯電話を持っている人は少なく、通話料もかなり高かったように記憶している。最初に買ったのはディスプレイが2行で、かなり重かった。次世代からはだんだん軽くなったが、せいぜい3行がいいとこ。もちろん白黒の画面だ。約2年ごとに買い換えて、3代目になったのが6年くらい前。ちょうどこのころからメール機能が出はじめたが、まだ少数だった。文書はまだファックスでくることが多かった。5年ほど前だったか、終電車に乗った私は、まわりの若者がいっせいに携帯を取り出してメールをするのを見て「なんだろうこの光景は?」と異様に感じたものだった。4代目になってやっとカラー液晶になったが、まだ折りたたみ式に抵抗があり、いわゆるストレート型だった。いよいよ自分もメール、インターネットの仲間入りをした。そして5代目はついに折りたたみに。今使っている携帯だ。カメラつきがあたりまえになりつつあったが、それでもカメラは不必要と思い、たった1種類しかないカメラなしの携帯をわざわざ購入したのだった。
5代目になって約2年。そろそろバッテリーのパワーがなくなってきているので買い換えようと昨年末からカタログを集めて考えあぐねている。どれもこれもみなカメラつきで価格も高い。困ったものだ。某社から機能を抑えて価格を安くした機種が出たが、これには大賛成だ。最近ではどんどん機能が増えてテレビつきや「おさいふ携帯」なる機能を持つものも出てきた。こうなると一時も肌身離さず持っていないと生活できなくなってしまう。実際、携帯電話依存症の若者がいかに多いことか。いや待てよ、そういう私も携帯を自宅に忘れて仕事に出てしまうと大変なことになる。ほとんど自宅にいない私に対して、仕事先や友人からの連絡はまず携帯にかかってくるし、私もそれを望んでいる次第。気がつけば数年前の若者のように、電車に乗ればメールのチェックをしているのだから、何をか言わんや。インターネットにしても使い放題はあたりまえになり、通信速度も格段に速くなった。ついに我が家も来月から光ケーブルの導入となる。今の世の中は情報化社会、IT産業の隆盛、何もかも便利になってしまった伝達手段だが、これで本当にいいのだろうかと考え込んでしまう。携帯がなかったころが妙になつかしいのは私だけだろうか?
まもなく6代目の機種に変更せざるをえない。携帯においては、購入は早かったが、機種は常に時代の最先端の逆で、時代遅れのものを使っていたが、いよいよここにきて次の携帯は最先端の機能がついているものになってしまうのか?「いやいや、まだまだ機能が最低のもので充分だ。電話は話せて、メールができさえすれればいい」と強がっているのもこれまでなのか?電話会社の商業ベースにまんまんと乗せられてしまうのが、どうにもくやしい今日この頃である。

最近では中高生の携帯電話普及率が異常に高い。小学生でも持っている子がいるらしい。中3の我が子にも昨年から持たせるようになってしまった。だが今の子どもにとって携帯は必ずしも必要ではないはずだ。安易に買い与えてしまって今になって大いに反省している。そういえば携帯がなかった頃、自分が大学生の頃など思い出すと、自宅の電話で1時間や2時間話してしまったという思い出がある人もいるだろう。私もよく長電話は禁止されたものだ。その分の電話代が携帯に分散したという考え方もあるが、自分で支払い能力をもたない学生にとって、やはり携帯電話は贅沢品だという意識をしっかりもたせなければいけないと思っている。放っておけばゲームをやったり写メールを送ったりしてしまうので、通信料が莫大な金額になってしまうのだ。息子には遊びには使わないと約束させ、「できるだけ基本料金、サービス通話の中で使いなさい」と釘を刺している。世間の親はどう考えて与えているのか聞いてみたいものだ。
 これから息子は高校生になり、また下の子どもたちも次々に大きくなるにつれて、どれほど親が管理できるのか、大いに不安である。公衆電話が少なくなった昨今、ますます携帯電話の必要性が高まるばかりだが、「みんなが持っているから」という理由で安易に与えてはいけないとも思う。こどもに与えるときの必要性をもう一度考え直す必要があるし、パソコンやインターネットに関しても慎重に対処していかなければならないと思っている。


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