* エッセイ集 *

2003年8月20日
・・・父の荷物・・・


 35才で私が教職を辞め指揮者になって11年になる。辞めたきっかけは、その4年前にさかのぼる「母の死」だと思っている。母が急逝したとき、30才だった私は「人生のはかなさ」を感じ、58才で他界した母を考えると「あと28年生きられるのだろうか」という不安にかきたてられた。「一度きりしかない人生だから好きなことをやろう」と思い始め、数年悩んだ末の決断だった。
 母の死から15年、今度は突然父との別れがやってきた。C型肝炎から肝臓癌になり、その癌細胞から急に出血したために、内臓を圧迫したことが命取りになったようだ。私も妻も「あと数年はがんばれるだろう。そのあとは数年間看病ができるかな」と思いこんでいた。もちろん本人も「あと5年はゴルフをやれればいいね」と言っていた。倒れる前日も私とゴルフを楽しんでいたくらい元気だったので、突然の死に言葉も出なかった。
 母の死を境に、私たち夫婦と父の同居が始まった。つまり家族は増えたのである。3人でバランスを保ちながら生活し、その後子どもを3人授かり、ここ10年間は6人家族が続いた。しかし今回は1人減ってしまった。この減ってしまったというアンバランス、どうもおかしいのである。我が家の生活リズムが一気に変わってしまったのだから。葬儀が終わって数日たって、やっとそのことに気づいた私たちだった。テーブルにお箸を並べるときも、お風呂の順番を決めるときも、朝起きて雨戸を開けるときも、その度に父の死を実感する毎日である。
 だいたい世の中の父と息子の関係なんてさっぱりとしていることが多い。とくに父は口べただったので、生前から父とそんなに話をするほうではなかった。私が教員を辞めるときも、黙って賛成していたくらいだから。それでも最近は一緒にゴルフをするようになり、少しはしゃべっていたほうだと思う。父は40年近く教員を勤め上げた。それも同じ工業高校で。どんな教員だったかはわからないが、家では不器用さが目立った。紙を大量に折るときには1枚1枚折っていく。手際が悪いことしきりだが「この方が上手くいくんだ」と言い張った。コピー機の使い方もわからない父に「それでよく教員をやっていたなあ」と半ば馬鹿にした言葉を浴びせていた私。優柔不断な父の態度に苛立ったこともあった。しかし今となって考えてみると、地道に人生を送ってきた証が、そうさせていたのだろう。とにかくコツコツまめに仕事をする人だった。
 父は何時間もかけて1通の葉書を書いていた。父の荷物を整理していて目立ったのが、皆さんからのお返事の手紙を大切にとっていたことだった。父の軍隊のころの友人は全国に散らばっているが、そうした友人が私の演奏会に来てくれると、必ず礼状を書いていたようだ。メールもファックスもできない口べたな父にとって、電話よりも手紙の方が気持ちを伝えやすかったのだろうが、それにしてもありがたいことだ。また、ちょっと車に乗せてもらっただけで、何か贈り物をしていた。そうした律儀な性格を、私はもっと見習わなければならないと思った。母の若い頃の写真を、15年間も診察券と一緒に持ち歩いていたこともわかった。
 父の兄が通夜の晩に「ショウちゃん(父のこと)は丁寧に生きたから、丁寧に死んでいったなあ」と涙ながらにつぶやいていたのが忘れられない。父と比べると、私など何とがさつな生き方をしているのだろう。心から反省させられた。父からは、生きていたときよりも死んでから多くのことを教わった。これからも教わるだろう。父の遺品がもの語っていると思う。「母の持ち物は捨てられない」と言っていた父。今度は私が父や母の持ち物を整理しなければならない立場になった。洋服や下着などは処分できても、手帳や手紙はおいそれと捨てるわけにはいかない。それこそ父の人生がいっぱい詰まっているものだから。
 少し前あるオーケストラのインタビューで「親の背中」について語ったばかり。「親の背中を見て、子は育つ」とはよく言ったものだ。私は今になって父の広い背中を思いだし、なつかしさと寂しさでやりきれなくなる。母が死んだときは、とてつもなく悲しかった。母がまだ若かったこともあるが、その時は「親孝行、したいときには親はなし」と思った。今回は「死なれてわかった、親のありがたさ」だ。15年たって母のもとへ旅だったのだから、父には「いってらっしゃい」と見送った。自分は子どもたちに、どういう見送られかたをするのだろう。


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