* エッセイ集 *

2003年2月1日
・・・貴乃花ごくろうさま・・・


 1月20日、大分にいた私の携帯電話に、妻からメールが届いた。「ニュース速報、貴乃花引退!」と。残念な思いはしたものの、たいして驚きもせず冷静に「ああ、やっぱりそうなってしまったか」と受け止めるだけだった。
思えば約3年前、若乃花が引退したときにもエッセイを書いたが、今回の貴乃花引退のことについても相撲ファンの一員としては書かないわけにはいかないだろう。若乃花の場合は突然のことでショックが大きかったように記憶しているが、貴乃花の場合は残念ながら、相撲を見ているファンでさえ「いつ引退してもおかしくない」とヒヤヒヤしながら初場所を見ていたに違いない。特に雅山との一戦の後、肩を痛めて休場した時には、このままこの場所も休場だと思った。しかしテーピングもせずに再出場をしたときには信じられない思いと同時に悲壮感さえ感じられた。「同じ場所のけがでの再休場は許されない」との理事長の見解が発表になるや、即座に貴乃花の引退が騒がれるようになった。自分の力士生命の終焉が見えてしまうかもしれない、重く大きな十字架を背負ってしまったのだ。貴乃花が気の毒になった。今日が見納めとなるかもしれないと、連日ファンが詰めかけ満員御礼となった。そして横綱が平幕に負けても座布団が舞わない。マスコミからは同情する声も聞かれた。そもそも横綱が同情されるようでは、やはりもう限界がきたのだろう。
彼の15年の土俵生活には初めから大きなプレッシャーがかかっていた。わずか15才で親子関係を断ち、師匠と弟子という厳しい師弟関係を貫いた。若貴フィーバーとも言われ、未曾有の相撲人気を一手に引き受け引っ張ってきた。「不撓不屈」の精神で「不惜身命」相撲道に励んだ結果が招いた結末となった。こうした四字熟語を私たちに知らしめてくれたのも若貴だったのではあるまいか。四字熟語辞典を用いて表現するならば、意気揚々と新弟子になり、電光石火のごとく勝ち進み、気宇壮大にして質実剛健な横綱となった。その後は喜怒哀楽を抑え悲憤慷慨することもなく隠忍自重し心頭滅却の境地に達した。一心不乱に相撲道を極めた。若乃花の引退の後は各界のプリンスとして孤軍奮闘。艱難辛苦を乗り越え孤高の横綱と評された。しかし無理に太ったことによる肝臓疾患と度重なる怪我に悩まされ30才にして満身創痍となってしまった。盛者必衰とはこのことを指すのだろうか。
大関のころまではよくテレビのバラエティ番組にも若貴兄弟で出演し、さわやかな笑顔を見せていたが、横綱になったとたんに豹変した。この数年間に心底笑った顔を見ていない。勝負師は寡黙であった。頂点に登りつめてしまった者の宿命と簡単に言ってしまっては、あまりに気の毒だ。しかし横綱の上はない。あとは引退するだけなのが現実だった。一昨年の夏場所に小泉首相のあの「感動した」ときの相撲は目に焼き付いて離れない。まさに鬼の形相、怒髪衝天のごとく感じられたのだった。
日本独特の「散り際の美学」からすれば、今回の引退はけして潔いものではなかったと思う。引き際だけを考えれば昨年の秋場所で12勝2敗の成績で優勝戦線に残り千秋楽で武蔵丸に破れたときに決断しても良かったのでないか。しかしここまで引きずってしまったのは、彼が常に再起することを念頭に稽古に励んでいたからであり、また彼の肩に重くのしかかったプレッシャーがそうさせたのだとすれば、相撲協会やファンの責任のほうが大きいと思うのは私だけではないはずだ。
引退を表明した朝でさえ、自宅のトレーニング室で汗を流していたと聞いて、言葉も出なかった。もし自分が貴乃花の立場だったら、もうトレーニングはしないだろう。そこにプロとしての誇りと真摯な姿勢を感じざるを得ない。まだまだ甘い考え、勉強不足の自分が恥ずかしくなった。洗脳騒動やバッシングなど、周囲を騒がせもしたが、今となっては彼が相撲道を極めるための自己演出だったとも考えられる。やっと肩の荷が下りたのだろう、引退会見の表情は硬いながらも安堵感がうかがえる何ともやさしい顔をしていたのが印象的だった。師弟から父子に15年ぶりにもどった瞬間だった。自分に厳しく、相撲に誠実な態度を貫いた会見だった。ただ笑顔はなかった。「すがすがしい気持ちで、心の底から納得している」とは本心なのだろうか。疑問は残るも「今でも相撲を愛しています」との言葉に心を打たれた。まだ30才なのに人生を全うしたかのような言葉からは邪念など微塵も感じさせない。無念無想の境地に達することができたのだろう。今は心から「ごくろうさま」と言いたい。そしてゆっくりと体を休めてほしい。これからは満身の笑みをたくさん見せてほしいものだ。貴乃花から多くのことを学ばせてもらった。  


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