* エッセイ集 *

2002年12月1日
・・・二つのアルプスの景観・・・


 教師を辞めた93年の夏、スイスのルガーノで指揮セミナーを受けていた私は、1週間の休みを利用して氷河急行に乗り、ツェルマットに向かった。セミナーで知り合った友人と3泊4日の旅、目的は名峰マッターホルンを見るためだ。ツェルマットは日本の上高地と同じく、ガソリン自動車は禁止で、マイカー族は手前の駅で電気バスに乗り換えて入山することになる。そのおかげで山麓の小さな町の空気は澄み渡り、名峰をいっそう綺麗にひきたてる。町からは四方八方に登山電車が巡らされていて、どの電車からもマッターホルンが拝めるようになっている。天候に恵まれた4日間をすべて山歩きに費やした。毎朝ふもとでパンと飲み物を買ってリュックに詰め込み、勉強中のスコアをそれぞれ携えて登山電車に乗りこむ。周囲の小高い山から一日かけて下山してくるという日程だ。初めて見る氷河にも圧倒されたが、本場アルプスの山々に囲まれたその景観は、まさに霊感を感じるものだった。リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」やブラームスの「交響曲第1番」が自然と流れ出してくる、そんな幻想的な気分にさせられた。

 今夏は長野県、岐阜県、富山県にまたがる日本のアルプスを堪能した。これまで家族旅行はいつも車で移動していたが、今回ははじめて電車での移動となった。長尾県側の信濃大町から黒部に入り、立山を経て富山県側にぬける立山黒部アルペンルートだ。壮大な黒部ダムは想像をはるかに越えるものだった。遊覧船に乗り黒部湖の端まで観光した。トロリーバスやロープウェイなどを乗り継ぎ、立山室堂に着くと幸運にも「雷鳥」に出会うことができた。山小屋風の山荘に宿泊し、翌朝は早起きをして、いよいよ立山連峰の最高峰雄山へと向かった。山道はよく整備されていて、所々にベンチが設けられている。そのベンチを目標にし、そこで時々休みながら中継点である標高2700メートルの「一の越」までゆっくりとトレッキングを楽しんだ。そこから雄山山頂までは標高差300メートルながら小一時間かかる。この岩場がかなりの急勾配で苦労した。ゴツゴツした岩につかまりながら「よじ登る」といった体験は、私もそして子供たちにとっても初めての経験だった。無我夢中で山頂を目指した。登りつめたときには満足感に浸り、一杯の水の美味しさに感謝し、汗をぬぐいながら、しばし時の経つのを忘れて眼下の絶景を見入ってしまった。登るときよりも実は降りるときの方が恐かった。ちょっと足を滑らすと、細かな砂利がころがり、下から登ってくる人に当たりかねないからだ。注意深くやはり1時間かけて「一の越」まで戻った。下山するときには一瞬雲がかかり、ポツポツと雨が降ってきた。山の天気の変わる速さと、自然の大切さや厳しさに触れた。

 私たちを後目に、どんどん先に登っていく子供たちの姿を見て、彼らの成長ぶりを肌で感じたものだ。山道では鳥のさえずりと、自分たちが踏みしめる足音だけがBGM。少しでも高山植物や木々の名前でも知っていれば、楽しみも倍増しただろうが、それでも普段じっくりと子供と話をすることがない私にとっては、歩きながらの雑談は大変楽しく、貴重な時間になった。またなにより美味しい空気と雄大な山々の景観が、心を癒してくれる。実に贅沢な気分になれるのだった。

 ここ数年前からのトレッキングがブームが最近ではレジャーとして定着してきているという。それも中高年層にファンが広がっている。現に初老のご夫婦が仲睦まじく歩いているのを多く見かけた。ただ一人で埼玉県から来ているというご婦人が、かなりの軽装で登っていらしたのにはびっくりした。途中で雨に降られたらどうするのだろう、余計な心配がよぎった。富山県のある小学校では低学年の遠足で全員が雄山に登るのだと聞いた。山、海、川、自然に囲まれた富山県のみなさんが羨ましく思えた。都会で生活する私たちにとっては、自然の偉大さや厳しさに触れる機会は少ない。一杯の水のありがたさを忘れてしまっている生活なので、それこそ今夏の立山での体験は、子供たちにとっても強烈な思い出となって、今でも心に残っているという。我が家でも遅ればせながらこれからトレッキングにはまってしまいそうな気配である。トレッキングのルールやマナーも学んでいく必要があるだろう。さて来年はどこに行こうか。ヨーロッパと日本、二つのアルプス、共通点はたくさんある。どちらももう一度、いや何度でも行ってみたいところだ。


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