* エッセイ集 *

2002年10月1日
・・・中国で出会った馬頭琴・・・


  読者の皆さんの中には「馬頭琴」という楽器をご存じのかたも多いと思う。今夏の中国では、お土産として「馬頭琴」を一丁いただいてきた。全長1メートルくらいの擦弦楽器で、その名の通り棹の頭のところに馬が彫刻されているのが特徴のモンゴルの民族楽器だ。小学校の国語の教科書などで知られる「スーホの白い馬」の物語に登場する楽器。貧しい男の子が、自分の大好きな白い馬が死んでしまって、その馬とずっと いっしょにいようと、馬の皮や骨や毛を使ってこの馬頭琴を作ったとされているこの楽器は、2千年以上の歴史がある楽器。つまり紀元前から伝わるものとされている。ナイロン製の細い糸を60本から80本束ねて張ってある2本の弦は、昔はやはり馬の尻尾の毛を使っていた。弓も同じ素材だから馬の毛どうしを擦り合わせて音を出す楽器ということになる。フフホトのチ・ボラクさんのお宅におじゃましたときに、十数台の歴史のある楽器を見せていただいた。外モンゴル系、内モンゴル系と2種類あるのだが、私がいただいたのは当然内モンゴルタイプの馬頭琴だ。今も我が家のソファに立てかけてあり、少しずつだが音を出す練習をしている。

 この音が至極魅力的なのだ。心の奥深いところにず〜んと入り込んでくる。モンゴルの音階は日本や中国といっしょの五音音階で、しかも民謡は日本の追分や長唄によく似ている。馬頭琴は民謡の伴奏などでその歌をなぞって演奏されることが多く、我々の琴線にがっしりと触れるのだろう。日本でも最近、馬頭琴の音に魅せられた愛好家が増え、各地で講習会やコンサートが開かれているという。今回もフフホトに来て馬頭琴を勉強している日本人との出会いがあった。

 独特のビブラート、そして音と音をなめらかに移動するポルタメントが哀愁を一層かりたてる。ひとつひとつの音に心を込めて演奏する、音楽を表現するうえでの、ごく基本的な心構えをあらためて再認識させられた。馬頭琴の音からは、モンゴルの大草原の風景が思い浮かばれるのである。馬頭琴アンサンブル「野馬」の練習を民族歌舞劇院の4階でやっていたので、覗く機会を得た。彼らは今秋来日するが、演奏会のために合宿をして、一日12時間以上の練習をこなすという。音楽にかける情熱と緊張感あふれるその音色に圧倒され、しばし釘づけになった。

 馬頭琴と私の出会いは8年前にさかのぼる。チ・ボラクさんと出会ったときに、間近で見たのが初めてだった。ボラクさんとは馬頭琴協奏曲、草原音詩などを共演させていただいたが、その時から私は馬頭琴の音色の虜になってしまった。そして今回、現地で本場の馬頭琴を聴くことができ、感動をあらたにすることになった。日本の子どもの多くがピアノを習っているように、フフホトの子どもたちが馬頭琴を肩からかけて町を歩いている姿を見かけるのが、何と多いことか。馬とともに生活し、愛してきた内蒙古の人たちはいつも「馬」のことを考えている。舗装されていない悪路を車で通ったときには「馬なら速いのに」と。農村では収穫した稲を馬がゆったりと運び、「馬といっしょに寝起きしている」という。家族の一員のようだ。羊の肉はよく食べるが、馬は友達だからけして食べることはしない。そのような背景から生まれた馬頭琴は、彼らの喜びや悲しみ、祈りや希望を直接表すための、もっともポピュラーが楽器なのだと実感した。

 素晴らしい才能をもったミュージシャンと偶然フフホトで出会った。日本で音楽プロデューサーとして、またキーボードプレイヤーとして幅広く活躍する梁邦彦さんだ。多忙の中、休みをつくって遊びに来たそうだ。いろいろとお話しをすることができたが、彼も馬頭琴の魅力に取り憑かれたひとりだということが、彼のCDを聴かせていただいて、すぐにわかった。彼の創造する音楽は、どこか大陸的でアジアンテイストの味付けが多い。大草原が目の前に広がってくるのだ。愛のあふれるサウンドは心の芯の部分をくすぐり、癒され、一度聴いたら忘れられない強いインパクトとインスピレーションを与えてくれる。中国からの帰りの飛行機の中で何度も何度もCDを聴いた。目頭と心臓が熱くなった。正直に言ってこれほどまで心の奥に染みこんでくる音楽を、最近あまり耳にすることがなかった。私が指揮するクラシック音楽では、どれほどのかたの心が癒されているのだろうか。答えのでない問いに何度も自問自答していた。

 私の音楽感を変えしまうほどの出会い、それが馬頭琴と梁さんだった。我が家のCDライブラリーに新しい項目ができ、それがどんどん増えている。


エッセイのページに戻る



Takubo's Home Page 最初のページへ
【クラシック音楽情報センター】最初のページへ