* エッセイ集 *

2002年4月1日
・・・精進料理のこころ・・・


 先頃放送終了したNHK朝の連続ドラマ「ほんまもん」で、精進料理を再発見した方も多いと思う。私の家庭では幼少の頃から仏事が多く、その都度精進という言葉をよく耳にしていた。ただ幼かった自分は、父親の名が「しょうじ」だったので、父が作る料理かなにかと勘違いしていた。なぜ法事の時に父が料理をするのか、また父が料理をしている姿を見たこともない私にとって、これは大きな疑問でもあった。しょうじんが「精進」と書くのを知ったのは物心ついてからである。しかし精進料理は、単に肉や魚を使わず野菜中心の料理のことを指すことくらいしか長い間認識していなかった。なぜ精進(あることに打ち込むこと)と言うのか、また「精進落とし」とはどんな意味があるのか、さっぱりわからないまま今まで過ごしてしまってきたことを恥ずかしく思う。

 先日その「ほんまもん」で料理監修をしていた棚橋さんを訪ねた。原宿の静かな住宅地の路地裏にあるこのお店には、実は昨年の3月に友人と連れだってうかがったことがある。またゆっくりお邪魔したいと考えていたところに「立春吉日」という素敵なお葉書をいただき、またあの精進料理をいただきたくて予約をした。ご主人は私のことを覚えていてくれて、丁寧に応対してくださった。玄関を入るとお香の匂いが漂ってくる。作務衣を着た若い給仕さんが三つ指をついてご挨拶をしてくださった。こういう場合、迎えられた私たちはどんな返事をすればよいのだろうか。靴を脱いで座敷に上がると、大きな枝にたわわに花をさかせた見事な桜が一本。彼は花木を生けるときには、できるだけあるがままにするそうである。木や花のいのちの喜びがそこにあるからだという。そして柔らかい照明、掃除の行き届いた小ぎれいな部屋は、いっそう厳粛なムードをかきたてる。「掃除は身と心の清めです。皿洗い、片づけは次なる料理の始まりです。」とは彼の談。料理をつくる、そのものが精進なのだということだ。料理を作り終わったときには調理場はきれいでありたいという。

 大きな期待とともに先付けの「ごま豆腐」に箸をつけた。絶品!。デザートの「えび芋いちご」までの約2時間、心ゆくまで堪能した。単に美味しいという言葉だけでは表現できない充実感があった。それはやはり「感謝」の二文字がすべてを覆いつくしているからだろう。料理の作り手への感謝に始まり、野菜を育てた農家への感謝、食材そのものへの感謝は、つまるところ「天の恵み」にたどりつく。食べることは人間のもっとも神聖な行為であることを思い出させてくれる品々だった。こんなに清らかな気持ちで食事をしたことが今までにあっただろうか。見事な料理の中に、非常に高い精神性を感じ、同時に自分のぐうたらな生活態度を振り返る時間にもなった。

 いつも肩こりに悩まされているが、この日は自宅に帰ってから妙に落ち着いた気分になり、リラックスしている自分に気がついた。不思議と肩も凝っていないのである。本当に体に良いものを採り入れたという実感をさせてくれた。週刊アエラに彼の記した一文を紹介したい。「私は作り手として、料理を作るということは修行の一つであると考えていますので、自分を律し、野菜と向き合います。料理に込められた思いがお客さんの身となり、健やかな命の糧となるならば本望です。」

 音楽家としての自分の姿を顧みたとき、恥ずかしさがこみ上げてきた。音楽を提供していく自分にとって、彼と彼が提供してくれる精進料理から大いなる教訓をいただいた。次回は私と妻のそれぞれの親を招待して親孝行をしにうかがいます。こうご主人と約束をして店を出たが、私たちが路地を曲がるまで、深々と頭を下げてご挨拶をしてくださるご主人の影が脳裏に焼き付いて離れない。



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