* エッセイ集 *

2001年12月1日
・・・合唱コンクール・・・


 今秋、名古屋郊外のとある公立中学校の合唱コンクールに招かれ審査をした。教員経験十二年間のうち、最初の四年間は地元の習志野で中学校の音楽の教師をしていた私にとって、久々の現場だ。どんな合唱を聴かせてくれるのか楽しみに校門をくぐった。

 ちょうど文化祭の期間で、生徒の展示のほかに、地域の市民の文化活動の発表の場としても提供しており、様々な作品が所狭しと並べられていた。さながら公民館のよう。文化に対する先生方の意識も高く、校長先生は趣味の写真を展示、技労士の方の書も見事なものだった。体育館には職員の作品も数多く紹介されていた。校内を案内してくれた校長先生は「人には得手、不得手というものがある。スポーツが得意な子もいれば、芸術文化に秀でている子もいるわけで、それぞれの個性を活かせばいい。文化的なことには自信がある先生には積極的に出品してもらうようにしている。」とお話しされた。素晴らしいお考えだと思う。教師が率先して範を示す、そういう姿勢に子ども達は、きっと刺激を受けるに違いない。

 合唱コンクールは、近くの文化会館に会場を移し、午後から行われた。わずか十学級の小規模校だが、ひとりひとりの中学生が、生き生きと合唱する姿に釘付けになった。会場にはお母さん方が大勢押しかけ、立ち見席状態だ。ここにも親の教育への関心の高さがうかがえる。文武両道の生徒も多く見られ、いかにも運動部のような男子生徒が、巧みにピアノ伴奏を弾きこなし、喜々として指揮者を希望する。また堂々とソロを歌う生徒もいた。

 簡単に優劣をつけられないのが音楽だが、それでもコンクールなので一応優勝決め表彰した。またとりわけ3年生の最上級生としての立派な態度に心を動かされ、特別に指揮者賞、伴奏者賞、ソリスト賞を与えることにした。発表のときには会場が騒然となり、ものすごいパワーで喜びを表現していた。想像を絶する喜び方だ。そしてさらに感動したのが、受賞できなかったクラスも受賞したクラスへ惜しみない拍手を送っていること。また個人賞であるにもかかわらず、クラス全員で喜びを表していたことだった。

 昨今の中学生は、ちょっと目立つことをすると、茶化したりひやかしたりすることが多いのに、なんて素直な生徒達なんだろう。歌声にも感動したが、そうしたまっすぐな姿勢には、驚嘆を隠せなかった。合唱コンクールは、クラスの団結を深めるのに効果的な行事なので、どの学校でも力を入れてきたはずである。しかし来年からはこのような取り組みもできにくくなってきている、という音楽担当の先生のお話しだった。

 新指導要領で総合的学習というわけのわからない分野が入り込み、多くの教師が困惑している。そして音楽や美術の授業は週一時間も確保するのが難しい現状なのだ。国は、学力向上とともに情操教育の充実を唱えているが、新指導要領においてこれは矛盾だ。二兎追うもの一兎も得ず、ではなく一兎も追っていない。「ゆとりの教育」に失敗したばかりの今の教育に何が欠けているのか、教育審議会は現場の声をもっと汲み上げてほしいものである。多感な思春期にすばらしい歌をたくさん歌っていくこと、また自己表現として合唱にとりくむことが、大きな意義を持つと信じて疑わない。

 先日、教え子と飲む機会を得た。中学を卒業してから二十年近く経つのに、まだ彼らの中には合唱コンクールの思い出が刻み込まれているのには驚いた。大地讃頌は今でも歌えると言う。あらためて合唱のもつ魅力、音楽の授業の大切さを痛感したのであった。


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