田久保 裕一 の “エッセイ集”


2000年5月1日
・・・若之花の引退に思う・・・


 この原稿を書いている現在は、ちょうど桜の花が満開の季節である。桜の花は非常に華やかで、見ていて心がなごむものであるが、すぐに散ってしまうので何かもの悲しい気もする。散り際がいいといえばそれまでだが。

 そこで思い出したのが若之花。3月の大阪場所は相撲ファンにとっては悲喜交々複雑な思いで終わった場所である。貴闘力が快進撃して史上初の幕尻優勝を遂げ、大いに盛り上がった一方で、若之花の引退という非常にショッキングな一幕もあった。潔い散り際と言えばそうだが、あまりにも早い引退を残念に思う声が多かった。頂点に登りつめた横綱には、後は引退しか待っていない。今となってみれば兄弟横綱という相撲協会のシナリオに乗っかってしまったために招いた結末と考えることもできるのである。もし横綱になることなく大関で留まっていたならば、霧島のように名大関としてもっと長く相撲が取れたはずだと思うと、残念でならない。スポーツの世界は勝敗がはっきりしているので練習の成果がそのまま結果となってあらわれる。非常にわかりやすい反面、時に残酷な結末を招くことがあるものだ。

 話変わって、私の身を置く音楽、芸術の世界には、そういった勝負というものは基本的にはない。感性、個性というものは点数で計ったり、勝負して決着をつけるものではないからだ。しかしそうは言っても現実的にはコンクールというものが存在するのだが。評価は点数によって決められるにせよ、審査員の主観や趣味が大きく作用することが常である。私も依頼されてコンクールの審査に立ち合うことがあるが、音楽に点数をつけることの抵抗感と罪悪感で悩まされる。ミスを指摘するだけの表面的な採点でなく、できるだけ教育的な配慮をして、音楽に対する姿勢、表現の工夫を評価するように努めているが、音楽に順位をつけることさえ、ナンセンスに思えてくるのである。学校教育の中で、現在のように合唱や吹奏楽、管弦楽が盛んになった背景には、コンクールの存在が大きかったのは確かである。ただコンクールに勝つために音楽をしている演奏には、心が伴わないことが多いのが残念で仕方ない。目的としてではなく、単なる目標としてとらえてほしいものだ。大切なのは音楽を楽しむことだから。

 音楽の世界には相撲でいう横綱のような最高位はない。順位がつけられないからこそ、より高いものをめざしていこうとする意欲が湧いてくるのではないだろうか。音楽にはこれでいいという到達点は存在しない。だからこそ面白いのだ。小中学校の頃から音楽をすることしか考えていなかった私だが、定年も引退もない指揮者という職業を選んで、つくづく良かったと感じるとともに、これからも発想を豊かに、また精力的に、社会に貢献するような音楽活動を続けていきたいと意を強くした。


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